最近、子どもになっていました。って、そんないきなり(笑)。
実は最近、仕事で「子ども」がキーワードのデザインをしていて、子どもを相手にしてデザインするのなら、何となく「子どもっぽい」デザインではなくて、やっぱり「子ども」にならなきゃってことで、「子どもの世界へ」行っていました。僕は魔法使いじゃないから、どうしても身体的には子どもになれなかったけど、ココロは子どもになれたと思います。きっと。
で、近所のスーパーのトレーディングカードゲームで遊んでいる子どもたちに仲間に入れてもらったりもしました。ちょっとだけ下調べをしたので(笑)、「この兄ちゃんは、こっち側の住人だ」と、思ってくれたのかもしれませんね。「このカードは○○なんだよ」など、彼らにとってとっておきの情報を教えてくれました。僕の周りには赤ちゃんはいるけど、子どもはいなくて、「子ども」と、言うのは、とてもつかみどころのないものだったんですが、接しているうちに、最近の子どもというのは、僕が子どもだった頃よりはるかに「オトナ」なんだ。と、言うことがわかりました。哀しいくらい。僕が子どもだった頃は、「世界」というものは、どこまでも無限に広がっていて、希望に満ちていました。素直にいつか空は飛べると思ってました。雲に乗れると思ってました。同じクラスの頭の良い子から「のれるわけないよ。あれ、スイジョウキだよ」と、言われたときの困惑を今でも覚えています。なんだか「世界」が急に小さくなってしまいました。でも、帰ってそのことを親に話すと、「あら、そう。でも、ター(親からはそう呼ばれています)だったら、きっと飛べるよ」と、言ってくれました。もうそんなこと、言ったことすら忘れているかもしれないけれど、そのとき僕はとても嬉しかったです。初めから乗れないと決めつけるより、いつか乗れるという「希望」。感謝です。ありがとう。
でも、今の子どもたちというのは、はなから、そんなことはわかっちゃってるんですね。「大人たちが作った世界」の中で、子供たちは「それとは違う何か」を現実のものとしてイメージはするけれど、結局、あっさりと「大人たちが作った世界」を受け入れてしまう。当然のように。それは、ちょっぴり淋しい。
で、もうひとつ。みんながそうとは想いませんが、「死ね」とか、「殺す」とか、「むかつく」など、こうして今、キーボードを打つのも躊躇するような言葉を平気で、簡単に使っていました。びっくりしました。淋しい限りです。「命」の尊さを知っている人は、そんな言葉は使いません。
想うに、世間では「子ども雑誌」が売れていて、「子どもの教育」、「子どもの教育」とか言ってはいるけれど、やっぱり必要なのは「大人の教育」なんだと。大人たちが、子どもたちの「世界」を限りなく広いものにしてあげれる環境づくりが大切なんだなと。「大切」なものを、ちゃんと伝えていくということが大切なんだなと。
で、やっと本題。
動物園というのは、僕は単なる娯楽施設だとは想っていません。「命」を伝える場所だと想うのです。教育の場だと。環境であったり、生命、生態であったり。あまり知られていませんが動物園には、「どうぶつのお墓」があります。
ここには、動物園で天寿を全うした動物たちの他に、戦争のせいで、仕方なく僕ら人間に殺された動物たちも眠っています。お墓の前で手を合わせると、何とも言えないキモチになります。「命」というものを考えれずにはいられません。そういうのも含めて、何かもっと。そう、「チルドレンズ・ミュージアム」のようなことが、「動物園」でもできるんじゃないかな。と、想うんです。
僕は写真のアオサギさんの様に、ただの「訪問者」だけれど、少し考えてみようと想います。